奄美大島の一文字苗字【関ジャム】

この前の関ジャムで、奄美大島特集やってました。

奄美と沖縄の違い、奄美にまつわる話もあったりして面白かったー

 

okmusic.jp

 

奄美の音楽と関係ないけど、話の中で気になったのが奄美大島には一文字苗字が多いことに関する話。

 

サバンナ高橋:「奄美の方、苗字がめっちゃ特徴的。1文字で独特読ませが多いですよね(笑)」

 

元ちとせ:「奄美は1文字苗字が多いです。」

 

城南海:「歴史的に1文字にする時代があった。」

 

 安田章大:「ぼくもそうですもん、だって、もともと「安」ですもん。だけど、市役所におじいちゃん世代が言いに行って、「田」が入った。

 

元ちとせ:「多分、「田」が戻ったんだと思います。もともと安田で、「田」が一回無くなって」

 

サバンナ高橋:「誰が「田」をとった?」

 

元ちとせ:「薩摩藩が(笑)」「だからうちも「元山」だったんです。で、山が1回いなくなって、戻すときには、もう戻れなくなった法律に変わって、私は「元」のまま。」

 

この「戻った」って面白くないですか。

苗字って自分のルーツといいましょうか、自分の元にある背景が映し出されるものじゃないですか。地名とかもそうだけど。DNAみたいな。

支配しているものから言われたって、なかなか捨てられないと思うんですよ。

 

そう思うと薩摩藩がリアル湯婆婆に見えてきた(笑)

 

 

 奄美ヤマト王権大和朝廷)に方物を献上した独自の国であったが、1266年に琉球王に朝貢して以降、その文化的な影響を受け、1429年に尚巴志沖縄全島を統一して勢力を強めた後、琉球王国服従する関係となった。

薩摩藩は1609年に琉球王国を服属させ、1611年に奄美群島蔵入地(直轄領)とし、政治機構等の整備を進めた。

当初は群島民を農民階級とすることで琉球時代の名乗りを禁止したが、統治が安定してくると奄美群島における藩政に多大な貢献をした家に限って名字を与えた。

奄美大島を長らく支配し、笠利氏を名乗っていた佐文仁為辰(さぶんに・ためたつ)が、1726年に薩摩藩主より正式に代々外城衆中格(後の郷士格)の地位と田畑姓を与えられ、1752年に澄江(一代郷士格)、1761年に砂守(代々郷士格)の計3家が成立した。

その後、4番目の郷士格への取立審議が行われた際(島津重豪の時代)に、本領と差別化するために一字の名字とすることに改められ、以前よりの3家に対しても一字姓とするように命じられた(1785年)。

これに関しては、事実上支配下に置いた琉球王国が中国の冊封体制下であり続け、琉球の士族階級が中国名を使用していたことが関係していると思われる。

その結果、前述の田畑氏は本拠地の龍郷から龍家を、砂守家も同じく伊仙から伊家を名乗るようになった。

薩摩藩士が奄美他へ赴任・移住後も在留し、その子孫達がその名字を継承したが、本来は二文字や三文字であっても、その中の一文字を使って山元を元、伊集院を伊などとしていた。

また、統や朝のように先祖が琉球の役人であったため、名乗頭をそのまま名字とした例もある。

これら一字姓は公的な場合にのみ使用され、本来は二字姓等の家は私的には元の名字を名乗ることが多かったようである。

幕末になるにつれ藩の基準も曖昧になっていき、公文書等で元の二字や三字の名字が確認される。

1875年の平民苗字必称義務令により全ての国民が名字を名乗ることが義務化されると、多くは馴染みのある一字を姓にしたり、それを含めた二字姓を登録したが、かつて二字姓を与えられていた家は元の姓に復した。

 引用:Wikipedia